俳人 田代草猫

句集『猫』

著者 田代草猫
102 頁/文庫本サイズ/栞付録
発売 2017 年7 月2 日
定価 1,000 円+ 税
発行 認定特定非営利活動法人 新潟絵屋
印刷・製本 株式会社 大創
編集・装丁デザイン dododo
表紙・イラストレーション 井田英夫 [インタビュー]

平易な言葉で日常を切り取った、
鮮やかな十七文字ワールドが広がる一冊。
新潟絵屋の創設メンバーで運営委員/理事の田代草猫さんによる初の句集です。日頃は、画廊・美術館巡りを地でたのしみ、
新潟絵屋の活動を伝える案内状を配布しながら、外交官的役割を果たしている田代さん。25 年以上にわたり日々詠みためた俳句
をいつか一冊の本に纏めたいと話していた、そのいつかが、このたび訪れました。
dododoが編集・装丁デザインを行った初の書籍です。

句集『猫』句集『猫』
著者 田代草猫 [インタビュー]


interview title

日常の一瞬

俳人 田代草猫

 新潟市在住の俳人・田代草猫さんが、このたび句集『猫』を上梓した。生活の当たり前の景色が、五七五文字の中でふいに鋭利で繊細な――そして強靭な――側面を瞬かせ、再び日常に戻る。不思議な快楽だ。俳句とはこんなに風通しのいいものであったのかと思う。
 草猫さんはすらりとした細身の、竹久夢二が描く美女にも似たたおやかな姿の女性だ。そして、ヒールの靴でママチャリをがんがんガシガシと漕いで、街を疾走する。

冬晴や新潟の街ひらべつた

 草猫さんが拠点とする新潟市中心街は土地の高低差がほとんどない、ひらべったい地形の街だ。自転車移動に適していることは確かである、のだがしかし、草猫さんの移動距離は時に40kmをこえる。繰り返すが、ヒールの靴で、ママチャリで、だ。
「自転車は主に安眠のため。私は子どもの頃から睡眠障害があって、今でもワインかウイスキーのナイトキャップはかかせないんですが、眠りに入りやすくするために昼間はできるだけ体を動かすことにしているんです。美容と健康にもいいでしょ。あともうひとつ、私は生まれつき膝が悪く、小さい頃から思い切り体を動かすことができなかったんです。でも35歳で膝の手術をして世界が変わった(笑)。これで心置きなく動ける!って、すごく嬉しくて。公共交通に頼らず自転車を愛用するのは、その意識も影響してますね」

水に降る雪の一心不乱なる

「俳句をはじめたのは20代の後半、友達に誘われて俳句の会に参加したのがきっかけです。それ以前はまったく俳句に興味がなかったし、やりたいとも思わなかった。
 東京で学生生活をおくっていた頃、俳句をやっている友人から歳時記をみせてもらったことがあるんです。そしたら冬の季語に『水涸(みずか)る』という言葉があって。えーっ、て思いました。関東では確かに冬は乾燥して『水涸る』だけど、新潟は逆でしょ。雪が降って湿気が多くて、全然あわない。ああ嫌だ、俳句なんてつまらないと、そのときは思ったんです。自分で詠むなんて考えもしなかった。だけどその俳句の会で面白さに気がついて、そのままはまっていったんです。
 俳句の面白さって、写真と似ていると思います。私は大学で写真を学んだのですが、写真はカメラで一瞬を切り取り、俳句は言葉で切り取る。表現の方法は違いますが、俳句を詠む高揚感、達成感は写真を撮るときのそれにすごく近い。私が俳句に惹かれたのは、写真というベースがあったからかもしれないですね。
 写真は今でもときどき撮りますが、でももう本格的にやろうとは思いません。実は、大学の卒業制作の過程で、写真の現像液が原因で皮膚がかぶれてしまったんです。写真をやる人間としてはショックを受けるところなんですが、私はなぜかホッとして。あっ、これでもう写真をやらなくていいんだ、と思った。写真を続けたければかぶれない現像液を探せばいいだけのことなんですが、私はそうは思わなかった。自分の中で、写真はもう十分という意識がどこかにあったんでしょうね」

南風吹く昨日ゐた猫今日はゐず

 草猫さんはクイックアンサーの人だ。会話をしていても、まっすぐこちらに向けてスパン、スパンと言葉を返してくる。決断も早い。学生時代を費やし馴染んだ写真の世界からきっぱり離れたのも、自分にとって何が必要で何が不必要なのか、言い方を変えれば、何が足りなくて何が足りているのかを理解し把握する力が強いからだろう。
 日々の中にあるさまざまな経験や見聞。それらを自身の中に確実に積み重ね、取り込み、そしてある時「これで十分」という地点に到達する。そこからの迷いはない。その潔さは、草猫さんの句の随所に感じられる。
 ところで草猫さんは、最初から草猫さんだったわけではない。
「私は本名が『田代早苗』なので、名前を訓読みした『そうびょう』に『蒼猫』の字をあてて俳号(俳句を詠むときの名)にしたんです。でもある時、『早』にくさかんむりをつければ『草猫=そうびょう』になると気がついて、それで『草猫』に変えました。15年くらい前になりますね。
 でも不思議なもので、『蒼猫』時代と今では句がずいぶん違うんです。『蒼猫』の頃は観念的というか、頭の中でひねくりまわしたような気取った句が多かった(笑)。今は、日常を読んだ『写生の句』がいいと思うので。昔の句は、青臭くてちょっと恥ずかしいですね」
 句集『猫』のあとがきにも書かれているが、草猫さんはこの句集の編集中に16年ともに暮らした飼い猫を亡くした。『南風吹く昨日ゐた猫今日はゐず』の句は、この猫を詠んだものだ。
 日常は、ほんの薄皮一枚隔てて非日常と背中合わせにある。人の力ではどうにもならないこと。生きているものの生々しさ、切なさ、そして可笑しさ。それらをひらりとすくいとり、五七五の世界に焼き付ける。大上段にかまえることはしない。けれどそこには、日常のあわいに見え隠れする儚いことごとに、しかとした輪郭を与えようとする意志がある。その輪郭に触れたと感じる時、十七文字は不思議な瞬きをひらめかせ読み手をゆさぶる。草猫さんは表現者であると同時に、しっかりとした軸足を持つ生活者でもある。だからこその表現世界であろう。

金魚掬ひ一人見てゐるだけの子も

 田代家は、北前船の寄港地・新潟において大きな財をなした廻船問屋だった。「田三」というその屋号は郷土史の史料にも登場している。実際、草猫さんが子どもの頃、自宅は広大な敷地に建つお屋敷で、中庭だけでも4つあったという。三姉妹の長女である彼女は、この家を継ぐことは当たり前のことと受けとめていた。
「特別プレッシャーを感じたこともなかったです。昔、『ルーシーショー』っていうアメリカのコメディドラマで、主人公のルーシーが家柄のいい男性にプロポーズされる回があったんですよ。それで、その男性がプロポーズするときに『家柄なんて遺伝病みたいなものだから』と言うんです。そうか、遺伝病かと、子どもながらに妙に納得した記憶があります。田代家という家の管理人みたいな感覚もありますね。
 小さい頃の私は、神経質で気難しい、ずいぶんと老成した子どもだったと思います。虚弱体質で体も弱かったですし。周りの子達が幼く見えて、一緒に遊ぶこともあんまりしませんでしたね。あ、でも、小学校ではクラスの稲川淳二さん的存在として、怪談の語りで人気があったんですよ(笑)。心霊体験的なことは昔からちょいちょいあるので」

春泥を素十みづほの後に従き

 新潟市内の高校を卒業し、東京の大学へ進学して写真を学んだ草猫さんは、卒業後新潟に戻って就職し、ほどなく結婚。一男一女をもうける。
「子ども達は二人とも社会人として巣立ちました。子どもが巣立った後、寂しいという人もいるみたいですが、私は全然そんなことはない。きっちりやりきったという清々しさでいっぱいですね。
 今は絵本と童話の創作に取り組んでいます。絵本はモンゴルの画家さんと一緒に制作を進めていて、童話は東京八王子の大空襲をテーマに、資料を集めながら執筆しています。それから、やっぱり俳句。俳句に関してはまだまだやりきっていないので、もっともっと続けていきたい。小さい頃から、将来の夢やなりたい職業などがまるでなかったんですが、それは今も同じで、たとえば作家を目指すとか、そういう意識は全くないです。ただ目の前にあることをひとつひとつやりとげて昇華させ、小さな達成感を積んでいる感じ。これも、俳句を詠む達成感と似ていますね」
 最後に、俳句を詠むコツを聞いてみると、即答で「ハイクキン」という一言がかえってきた。
 ハイクキン?
「『俳句筋』です。頭の中に俳句の筋力を持ち、それを鍛えることが大事です」
 がんがんガシガシ。
 自転車で街を疾走する草猫さんの姿と俳句を詠む夢二美女の姿が、見事に重なった。(2017年8月 インタビュー)
※文中の句はすべて『句集「猫」』より

田代草猫

田代 草猫
たしろ そうびょう

昭和37年5月25日 新潟市生まれ
平成2年  俳句結社「童子」(辻桃子 主宰)入会
平成9年  童子「桃夭賞」 受賞
平成12年 「童子賞」 受賞
平成17年 「童子大賞」 受賞 
日本伝統俳句協会会員
新潟市在住


表紙・イラストレーション 作家インタビュー

描くことを糧として

画家 井田英夫

 鮮やかなピンクやブルーの屋根と、黄緑色の道路や建物。景色を眺めているのか足元の黒猫を見ているのか、手前にはうつむき加減で背中を向ける黄色いダウンジャケットの人物がいる。
 『句集「猫」』の表紙を飾るこの独特な色合いの絵は、新潟市秋葉区(旧新津市)出身の画家、井田英夫さんの作品だ。井田さんは旅先で気に入った土地があると、そのままそこに居着いて作品制作を行う。表紙絵は、2015年から2017年現在に至るまで二度にわたって長期滞在している広島県呉市音戸町(おんどちょう)で描いたものだ。
 音戸町は瀬戸内海に浮かぶ倉橋島にある。本州との距離は80〜200m程で、その間には大きな橋が二本架けられている。
 きっかけは、この町に住む友人からの誘いだった。
「友達のところを訪ねたら、そこがすごくいい場所だった。それが音戸町との出会いです。土地の魅力ももちろんありますが、何より住んでいる友達とその家族や周囲の人達が、ともかく自分たちの町を大好きで、とても大切にしているのがよくわかって。いいな、滞在したいなと思ったんです」
 音戸町では、時折友人のカフェを手伝って最低限の収入を得るほかは、ひたすら絵を描き続ける毎日だ。
 「たまに納豆も買えないくらい厳しいこともありますけど(笑)、なんとか暮らせています。絵を描く以外のことをすると考えがとぎれてしまい、絵の思考に戻るのに時間がかかってしまうんです。だから極力、絵に集中したい。朝起きると今日は何を描こうか作戦を練って、あとはほとんどずっと絵を描いています」
 滞在先から戻ってくると、新潟を旅先のように感じることがあるという。
「日本海と瀬戸内海では、海の色が違います。新潟では使わない絵の具を音戸では使う。そうすると新潟に戻ったとき、以前は見過ごしていた色を景色の中で見つけられるんですよ。音戸町で見つけた色が新潟の平野の風景と重なって、違ったものに見えてくる。すごく新鮮に感じます。以前は平野と山の雄大な風景が描ききれないでいたんですが、そろそろ挑戦できそうな気がしています」
 自著に井田さんの作品を選んだ理由を、田代草猫さんはこう語る。
「井田さんの絵は、たとえそこに人間の姿が描かれていなくても、濃厚に人の気配が感じられるんですよね。鮮やかな色彩で日常の風景を切り取る彼の作品は、俳句の世界と通じるものがあると思うんです」
 『句集「猫」』には表現者たちの幸福な結びつきが、ぎゅう、と詰まっている。(2017年8月 インタビュー)

井田英夫(いだひでお)
1975年旧新津市生まれ。97年新潟デザイン専門学校卒。99年モンセラート美術大学(アメリカ)卒業。ミンゴーギャラリー(マサチューセッツ州)で二人展。2002年より新潟絵屋、05年ギャラリーEMU-st(新潟)、11年久留米市一番街多目的ギャラリー、12年三方舎書斎ギャラリー(新潟)、15年天仁庵(広島)で個展開催。15年8月以降、広島県呉市音戸町に滞在。2017年は新潟絵屋で新作展を、砂丘館でこれまでを振り返る「ふだんを見つめる 井田英夫展」を開催。その後、新作はギャラリーみつけ(新潟)に巡回。2018年4月、三方舎書斎ギャラリーと新潟絵屋で有志の企画による「井田英夫支援展」が開催された。2020年4月27日逝去。
facebook
2020年4月30日有志による追悼サイトが開設されました:hideo-ida.com

トップへ戻る